1997年公開の宮崎駿監督ジブリ作品『もののけ姫』は、人間と自然との問題を洞察した深遠なテーマを描いています。神秘的で幻想的な森の風景を背景に、物語は展開します。
映画の背景には、タタラ場と呼ばれる一つの村のような集落が存在し、働く人々を特徴づけています。
しかし、タタラ場の存在は、見る者に数々の謎を突きつけています。これは何をしている場所でしょうか?
どのような人々が存在しているのでしょうか?
本稿では、これらの謎と、タタラ場に隠された知られざる秘密や豆知識について解説します。また、モデルとなった実在の場所や、作中に描かれた社会背景についても掘り下げます。
映画の主人公が出会う街、その中心に存在するタタラ場、そしてその独自の文化やシステム。全てが映画のメッセージであり、視覚的な物語を鮮やかに彩っています。その背後には、近代化の波に押され、忘れ去られつつある日本の伝統や信仰、そして自然への敬意が息づいています。
本稿を通して、『もののけ姫』の世界が更に深く、遠くまで広がっていくことでしょう。
ちなみに、Netflixで『もののけ姫』を見る方法があるのをご存知でしょうか?
詳しくは下記の記事で解説しています。
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【パート1】タタラ場の意味と役割
映画中で「タタラ場」とは一種の製鉄所を指す。現代の鉄鋼工場とはやや異なり、古くからの製鉄法、いわゆる「たたら製鉄」を指し、一つの町または集落がこれに特化した形で存在していた。ストーリーでも、多くの人々が忙しく働くタタラ場が描かれている。
タタラ場で働く人々の主たる業務は、鉄の製造である。映画でも、女性たちが一体となって大量の鉄を作り出す様子が具体的に描写されている。さらに、タタラ場では「石火矢」と呼ばれる大砲も生産しており、これは森に住む「もののけ」を攻撃したり、鉄を奪おうとする侍たちから自分たちの町を守るための道具となっている。
しかしながら、タタラ場の存在は一方で、ある重大な問題を引き起こしてしまう。
それは自然破壊である。
鉄や石火矢を作るため、タタラ場の人々は害悪なくしてはいられない森や山、川を破壊してしまう。その結果、森の中の神々を怒らせ、「タタリ神」が生まれてしまう。これが映画『もののけ姫』における主人公アシタカの旅のきっかけとなる。
よって、タタラ場とは物語における重要な要素であり、さまざまな人々が生活し、製鉄を行い、最終的には自然の怒りを生んでしまう現象を引き起こす重要な地である。
しかし、タタラ場が単なる製鉄所ではなく、人々の生活を支え、一方で自然との摩擦を生む舞台として描かれていることで、映画の深いメッセージが浮かび上がる。
【パート2】タタラ場のモデルになった実在の場所
『もののけ姫』に描かれるタタラ場の実在のモデルは、日本の島根県雲南市にある菅谷タタラです。ここは、現存する唯一のタタラ製鉄施設で、かつては盛んに製鉄が行われていました。タタラ製鉄とは、日本古来の鉄作りの技法で、近代的な製鉄技術にとって代わられるまでは、より純度の高い鉄を取り出すための重要な手段でした。
菅谷タタラでは、当時の製鉄所の労働風景を現在も体験することができます。現在は重要有形民族文化財に指定されており、歴史的な製鉄所の原風景を感じ取ることができる場所となっています
【パート3】タタラ場で働く人々の意義
タタラ場で働く多くの人々の生活や意義についても心に留めておくべきです。彼らがこの場所で何を求め、どのような生活を送るのかということは作品の深さを理解する上で大変重要な要素となります。
このタタラ場で働く人々の中には、エボシゴゼンの庭と呼ばれる場所に住む人々や全身包帯を巻いた人々がいます。全身包帯姿の人々は病者と名付けられ、体を起こすことができない人々も見受けられます。
これらの人々が何の病に侵されているかを考察すると、最も可能性が高いとされるのがハンセン病、または通称「らい病」です。ハンセン病は長年社会問題とされ、患者は差別や偏見に晒され、日の目を見ること無く生活していました。
しかし、エボシゴゼンはこれらの人々を受け入れ、彼らに働く機会を提供しています。これは彼らが「必要とされる存在」という希望を得ると同時に、タタラ場の生産活動を支える大切な一員であるという意義を持つことを示しています。
また、エボシゴゼンが率いる女性たちもまた、不遇な生活を送っていたとされますが、タタラ場で社会的弱者である彼女たちが力を合わせて働き、生計を立てています。製鉄所の物証として画面に映し出される彼女たちの姿は、現代においても見逃してはならない一面を示唆しています。
これらのタタラ場で働く人々の存在は、『もののけ姫』がただ単にアニメーション映画である以上に、社会問題や人間の生き方について深く考えてみる機会を提供してくれます。作品を通して、社会的弱者の存在とその持つ力、人間の尊厳について改めて考えることができるのです。
【パート4】タタラ場にいる子供たちの存在について
ジブリの『もののけ姫』の舞台、タタラ場には子供の存在が一切描かれていませんが、これには宮崎駿監督の確固たる意図があるでしょう。タタラ場は一見すると工業化された場所であり、その中に村に住む人々がいるという設定です。しかし、その中ではいつも転戦の事態が続けられていました。そんな不安定で戦闘が絶えない環境の中で子供たちは育てずらいでしょう。そのため、物語の中では子供の存在が描かれていないのです。
しかし、宮崎駿監督自身が劇場用パンフレットのインタビューで
子供も本当はいたのでしょうけど、ややこしくなるから入れなかった
と語られています。これは、単純に物語を混乱させる要素として子供を省き、また、戦の最中にあるタタラ場の現状を強調するためでしょう。監督自身が、
そのうち子供もいっぱい生まれてくるんでしょうけど
と述べているように、タタラ場は今は子供を育てるような場所ではないという現実を表現しています。
タタラ場の人々が日々を過ごしながら、争いと戦闘の中で子供たちを育てられない状況。その中で彼らは希望を持ち、次世代につなげていこうとする意識を持っていることを描くことで、『もののけ姫』は重要なメッセージを私たちに伝えています。それは、現代社会で生きる我々に対する問いかけでもあります。
私達はどのような環境でも未来を切り開き、次世代に繋げていけるのか、その根源的な問いを映画の中で提示しているのです。
【パート5】タタラ場の女性たちの過去とエボシゴゼンの影響
「タタラ場」の中核を占めるのは、たくましい郎と女性たちですが、事実、彼女たちは一見すると不可解な存在かもしれません。それは、なぜなら彼女たちは全てエボシゴゼンによって身売りされた生活から解放され、この場所に引き取られた人々だからです。
舞台は断続的な戦端となり、徹底的に客観化された「タタラ場」です。皆が一体となり、前向きに働き、明るい笑顔で暮らしています。これらの女性たちが、かつて売られた生活を脱し、ここで新たな生を歩んでいるのが明らかです。男性たちと一緒に働きながらも、彼女たちはしっかりと一致団結し、必要に応じて彼らを思うがままに操ります。
エボシゴゼンに救われた後の彼女たちは、心から彼を慕い、「エボシ様」と呼びます。それら彼女たちの顔には、過去の哀れさや不安は見当たりません。元来、そんな過去があったとは想像できないほど、彼女たちは心から明るく生き生きと働いています。
その生活力と活気は、ある意味、彼女たちがエボシゴゼンに救われ、新たな生の機会を得たことへの感謝の印とも言えるでしょう。
そんな「タタラ場」の女性たちとエボシゴゼンの間には、思いもよらないほど深い結び付きが存在します。その絆は、厳しい過去を越えて築かれたもので、彼女たちが新たな人生を歩むための大きな強さの源となっています。
【パート6】アシタカがタタラ場に留まる理由と新しい生活
『もののけ姫』の物語は、その最後において主人公アシタカがタタラ場で暮らす事を選ぶ展開を迎えます。アシタカは紛争の象徴であるタタラ場に留まることを選ぶのですが、その理由と新しい生活について掘り下げていきます。
物語の中で、アシタカは故郷の村から腕に呪いを受けたことで追放され、その旅の中でタタラ場を訪れます。そして彼がタタラ場に残ると宣言し、故郷には戻らないと言う場面があります。これは、腕に呪いを受け、村から追放されたアシタカが新たな居場所としてタタラ場を選んだといえるでしょう。
タタラ場は身売りされた女性やハンセン病の患者など、人間社会から離された人々が新たな生活を構築している場所でした。彼らは過酷な環境にもかかわらず、互いに支え合いながら生きています。その姿はアシタカに深く共感を覚えさせたことでしょう。アシタカは自分自身も村から追放された者として、その中で平等に受け入れられ、誰もが共に生きているというタタラ場の生活に共鳴したのかもしれません。
彼は呪いを受け、故郷を追い出されました。そして彼の唯一ともいえる受け入れ先が、様々な事情を抱えた人々が共に生きているタタラ場だったのです。社会の縁から離れ、差別や偏見にさらされる人々が存在し、その生活の中に平等が求められ、持続可能な環境が整わなければならない、という現実への指摘とも見えます。
以上のように、タタラ場の存在は、私たちの現代社会に対し、あるいは具体的な社会問題に対し深い洞察を投げかけています。そしてそれは、視聴者それぞれが個々の解釈をする余地を残し、それらが多様な議論を生むきっかけとなっています。
終わりに
これらの描写を見て、我々はジブリの『もののけ姫』のタタラ場が、宮崎駿監督の緻密な想像力とスケッチ力によって具現化された複雑で多面的な社会の鏡だと理解することができます。
物語中には子供がけっこう存在せず、女性達は本来社会から弾かれた役割を持っていましたが、共同体に組み込まれ、肯定的な役割を果たしており、そして主人公のアシタカが呪いによって自分の故郷を離れ、タタラ場を新たな居場所として選んだこと。
それら全てが、社会の厳しさだけでなく包摂性と理解という別の面を描き出しています。
映画を通して、宮崎駿監督は我々に私たち自身の社会について考えることを奨励しています。『もののけ姫』が描くタタラ場の住人たちが、厳しい現実の中で困難に立ち向かい、それでも共同体を育み、幸せを追求するその姿勢は、我々もそれぞれの立場で複雑な問題に向き合う現代社会において大切なメッセージを伝えています。
『もののけ姫』が描くタタラ場とその人々の物語を通じて、私たちに伝えられる社会課題への敏感さ、社会改革への熱意、そしてスティグマや排除に立ち向かい、共同体と包摂性を求める力強さは、現代社会における重要な問いを投げかけ続けてくれるでしょう。
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